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2007.11.17 (Sat)

焼き物の魅力と鑑賞

 焼き物は 太古以来存在する、土と火という原始的なものによって産み出される。
そしてその出来様は 神のみぞ知る、と言われるように
土と釉薬、火の温度によって、その組み合わせいかんで いかようにも変化する。
今までの経験の積み重ねによって ある程度は想像できると思うが ちょっとしたことで全く違う出来になってまうことが多いという。
 それで すでにある傑作、いわゆる名物と言われる物は 作り手のかなりの経験、努力、研鑽の積まれた結果によるものと想像される。
当然 それの芸術的価値、また金銭的価値というものは高い。
古のものとなれば もう作り手は存在しないのだからなおさらだ。

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志野茶碗、職人M作

 安土桃山時代になると それ一つが一国の領土にも匹敵するような価値あるものと見られた時もあった。 もちろんそれには理由があったと思うけれど 自由都市、堺に育った、日本の誇るべき 茶の湯の文化が背景にある。 武野紹鴎、千利休など すぐれた茶人の多くは堺の町衆である。 焼き物の中でも 日常生活に使う、つぼやかめ、食器の類ではなくて いわゆる、茶陶において その芸術的価値、見どころを見出すようになったと思う。 そして茶の湯の文化は 今なお続いている。
 私も若い頃 人並みに茶道を習得しようと始めてみた。ただし長くは続かなかった。 作法に始まり 形式を何より重んじるようで 一期一会はわかるけれど 精神的なものが伝わってこなかった。 また若いから 茶を喫する、という楽しみまではわからなかった。 若いときは 箸が落ちてもおかしくて仕方がない、という具合だったから なおさらだ。
 

【More・・・】

それが 後々になってから 茶の湯、の中でも [ 侘び茶 ]というのにとても魅かれるようになった。 よくはわからないけれど 茶を楽しむのにも 精神の根底に 驕り、贅沢を排除しようという思想があると理解している。 当然、道具を自慢するなどもってのほかだ。 また後々になって お茶の飲み方の作法のほうが第一に言われるようになってしまったが 本来は がぶりと飲んでよしでよかったと聞いた。

 侘び茶、の創始者は 村田珠光という人である。
武野紹鴎は その珠光の 侘びの茶風を発展させて 利休に伝えた人だ。
[ 無道具、真ノ茶 ]
 真の茶は 道具に頼るものではなく 心の働きによるべきだ、という姿勢である。
 私はこのことが とても気に入っている。


 世の中に出ている名物、また大作家の作とされている芸術作品の価値、金銭的価値である値段を見るとびっくりしてしまうことがある。
 古のものは仕方が無いが 現代の人のものでも非常に高額なものもある。芸術的価値を金銭的価値に置き換える事自体、おかしなものだが
世間での評価がわかりやすい。
 世の中に それらを所有するにふさわしい人が数多くあるからそれはそれでいいと思うけれど 私たちにはとてもそんなことは無理である。また所有したいとも思わない。そうなるとまた別な心配がついてくるものだ。
しかしながら 私たちには豊かな想像力というものがある。 貧乏をしていても 一物をもって 名物と見立てる、豊かな心持ちさえあれば それはもう名物としてあって じゅうぶんお茶を楽しむことが出来るはずであると考える。 豊かで自由な精神さえあれば。
 職人Mのつくる器がある。そばで見ているとかなりの研究家である。
また 独自の芸術性が素晴らしい。
志野茶碗を手にすれば 古の作品を想像しての創意工夫が見てとれて かつ伝わってくるから もうそれは 古のもの、また豊蔵のものにも匹敵してくる。また 実際お茶を飲めば 名物でもって飲んでいる気持ちになる。 また 黄瀬戸ふうの大皿を見れば 釉薬、土から違うけれど 古の黄瀬戸のものとなって迫ってくるから 使う側も緊張してしまう。
全くの身内びいきになってしまうのかもしれないけれど そうなのだから仕方がない。

 また世の中で評価されていても いくら豊かな想像力を持ってしても
何も伝わってこないものもあるから 鑑賞する力もおのずとそなわったのかもしれない。  職人K

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黄瀬戸写し大皿、職人M作
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