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2008.06.30 (Mon)

藤原正彦氏、来福

美しい日本2

先日、[国家の品格]で有名な、藤原正彦氏が鯖江へ来られた。
福井県へは、はじめてとのこと。 最近の言動については、少しは知っていたが、
生の声での話は、やっぱり違うと思った。 今回は、地元の青年会議所の招きによるものだが、遠く県外からもわざわざ来られている人もあるとのこと、やはり今、活躍中の時の人であると思った。

ご存知のとおり、藤原氏は、父に新田次郎、母に藤原てい、という文学者を親に持つ学者であるが、本当の専門は数学者である。 そのご両親から、政治、経済のことだけは語ってはならぬ、、と家訓として言われていたにもかかわらず、こうして今、それについて語るようになったわけは、そうせざるを得なくなった、非常な危機感によるものからであるとのことだった。

氏によると、ここ10数年の日本の変化は著しいものであるという。
その傾向は日本に限らず、世界的なものだというが。
このまま進んでいけば、何もかもが失われてしまうのでは、、という危惧のもとに、そうなってしまった、これまでの政治、経済を検証し、その結果、アメリカから入りこんで来た、市場原理にまかす、、という新自由主義の行き着くところ、その落とし穴について、何より国民そのものがしっかりと見据えなければならないことを、いろいろ例をあげて話をされた。
数学者らしく、単純明快な説明、それに例をあげて 数学の証明のように、鮮やかな正解へと、
私たちを導かれていくように、私には感じられた。
最近は、評論家ばかりで、このように自分の信ずるところの意見を、誰にはばかることなく、
ストレートに発言される人は少ないのではないか、と思われる。
氏の口ぐせは、「、、、ですねぇー。 例えばですね、、、」 であり、
その日は、その語り調がこびりついて、私の頭の中にインプットされてしまった。

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2008.06.29 (Sun)

art  gallery  アジサイの花の競演

あじさいC
これから青の色に? それとも紫の色に?

あじさいB
ヨーロッパでのアジサイの花の色はこんなのかしらん?

か゜くあじさいA
ガクあじさいの花

あじさい、隅田川の花火
隅田川の花火、というアジサイの花    
                                         写真、職人M
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2008.06.27 (Fri)

梅雨のひと休み、小さな生きもの

かたつむり2


かたつむり1

                                            写真、職人M
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2008.06.26 (Thu)

野口英世  Ⅴ

野口英世とフレキスナー博士

アフリカと日本人、ということで、野口英世の話にずいぶん長くなってしまった。
最後は私の好きな、気になる、師と弟子の関係のこと。
野口英世の成し遂げた偉業の上でいちばん重要、かつ大恩人とも言うべき師、それは米国のフレキスナー博士だ。 フレキスナー博士は、ロックフェラー研究所の初代所長、野口の才能を見出し、研究の場を与え、だれよりも野口の努力を賞賛した、師である。
それだけに、野口がアフリカで殉職したことを知った日、
「悪夢の一日、苦悶の一夜」 と、悲嘆に明け暮れたという。

野口が単身米国に渡り、ペンシルバニア大学のフレキスナー博士を訪ねてきたのは、1900年(明治33年)12月であった。
「この東洋人は誰だろう?」 博士はすぐには思い出せなかった。
ちょうど1年半前、日本で会ったことのある、あの通訳をつとめた野口であることがわからなかった。
野口は1年間、北里柴三郎伝染病研究所にいて、そこにちょうどフレキスナー博士が来日した。
そこの同輩は、帝大出身の者ばかりだったけれど、英語の通訳が出来るのは野口だった。
そのとき、野口は、学歴でなく能力で評価される米国へ行きたい旨を話し、
フレキスナー博士も 君が米国へ来た時には力になろう、と約束してくれたのだった。
しかしながら、それは多分に社交辞令の言葉というもの。 本当にやって来るとは思わなかった。
しかも無一文同様で。
「研究所で働かせてほしい。」 必死で頼みこむ野口に、フレキスナー博士の答えは、「ノー。」
絶望のあまりに野口は気を失って倒れたという。 結局、必死の願いに、
ポケットマネーから月8ドルで私設の助手として働くことを許可したのだった。
それから 師と弟子との関係が始まるのだが、
「いかなる西洋人も、ノグチにはかなわない。」 と、その努力を賞賛し、指導に力を入れ、わが身の一部のように、かわいがったという。
最初に与えられたテーマは毒蛇の毒の研究。当時、米国ではガラガラ蛇の毒の被害が多い事情があったらしい。 危険な研究だけに、東洋から来た、素性のわからない男に与えるには、格好のテーマだったのかもしれないということだが、それでも野口は その期待によく応えた。 助手になって1年もたたないうちに、博士と共同研究を発表するまでにもなったという。
当時の一流科学者の発表の場、ナショナル・アカデミー・オブ・サイエンスでだ。

第一次世界大戦のために、その年のノーベル賞は取りやめになってしまったが、その候補となった、
梅毒スピロへータの純粋培養で、はじめて患者の脳から、ほかの研究者が見つけれなかった菌を検出したときには、「見つかった」と大騒ぎして、朝早く、フレキスナー博士を自宅まで呼びに行って、二人で顕微鏡をのぞき、興奮をともにしたという。 二人とも、根っからの研究者だった。
野口が取り組んだものは、そのほか血清療法、オロヤ熱、トラコーマ、黄熱病、、など数多くあり、
世界中にヒデヨ・ノグチの名前が広がったという。

当然、世界のあちこちから、ぜひうちの研究所にと、声がかかるのであるが、
生涯、今日自分があるのは博士のおかげであるとして、
フレキスナー率いるロックフェラー研究所のためにと、そこをはなれようとはしなかったという。
ここが、日本人らしいところ。 とても素晴らしいと思う。
アフリカに赴いたのも、危険だと反対されながら、ひとびとのためにと向かった。
研究者としてまだまだ、53歳の若さで先に死なれてしまって、フレキスナー博士の無念さ、悲しみが痛いほど想像できる。

現代は、伝染病は、菌からウイルスの時代に入っているが、まだまだ不明の、SARSやエイズ、鳥インフルエンザなど、、博士が今生きていたら、きっと全力で研究に立ち向かっているだろうに、と思う。
財布の中に入っている、千円札、たまにはゆっくり眺めて、野口英世、という偉大な日本人がいたことを、思い出してみなければ、、、と思った。                職人K


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2008.06.23 (Mon)

野口英世  Ⅳ

磐梯山

吾が霊は 野口英世を生みたりと語るが如し 磐梯山は、 と
仙台出身の詩人、土井晩翠が詠んでいる。 
(近代日本を代表する詩人、[荒城の月]の歌詞は土井晩翠である。)

福島の若松に近い、磐梯山は1800mに満たない山であるけれど、その堂々とした裾野の広い雄姿は、見る人を圧倒するという。 今は休火山であるが、今から120年前の1888年(明治21年)、大音響とともに大爆発を起こした。 多くの家々の壁が落ち、倒壊して、また流れ出た溶岩が麓の村を押し倒し、多くの人の命を奪ったという。
こんどの、宮城福島内陸地震も大きな被害であるが、その近く、当時の、その山の大噴火もかなりのものだったようである。

そのとき、野口博士も、大噴火を目の前に経験した。そして、野口自身も あたかも心の中も大噴火があったごとく、大きく変わっていったという。 かくれた天才がそろそろ頭角をあらわし始めてきたという。 そのとき13歳、野口清作と呼ばれていた頃である。
あとになって、野口英世と改名したいきさつは、次のとおり。

野口清作が、ある日、何気なく読んだ、坪内逍遥の小説、「当世書生気質(とうせいしょせいかたぎ)」
の中で、田舎出の医学生が、悪い場所に遊びに行き、だんだんと堕落していくという筋の小説であるが、その医学生の名前が、なんと野々口精作だったという。周囲から、実際のモデルだと誤解されては大変と考え、改名したという。 英世、という名前は恩師、小林先生によるものらしい。

のちに、毒蛇の毒や、黄熱病の研究にも、何ごとも恐れなかった野口博士であるが、
このようなことには、一般の人のように、非常に気にしたということが、とても興味深く思われる。

後年、野口博士が生存中に、自分について書かれてある伝記を読んで、こう言ったという。
私は決してこんな立派な人間じゃない。神でない以上、人間は完全なはずがない。日本人は何故、
有名になると、このようにほめたたえて、すぐ完全な人間にしたがるのだろう、と。
 そう、堂々とした磐梯山を朝に夕に眺め、また育てられた、大偉人、野口博士であるが、
清作少年のころはもちろん、その後も青年時代は、多くの人と同じように、欠点も弱いところもおおいにある、一人の人間であったようである。                           職人K

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2008.06.22 (Sun)

art gallery   BIRE LEY'S から

aa.jpg

DD.jpg

黒い太ぶちの丸メガネをかけて、、、、変身!!!            (コーディネート、職人K) 

                               
                              pepeさん

                                      
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2008.06.21 (Sat)

アジサイ(紫陽花)の花

いよいよこちら北陸も梅雨入りしたとのこと。
久しぶりに雨、蒸し暑い日となってきた。
人間とちがって、この梅雨の雨、湿度にいっそう生き生きとしてくるもの、それはアジサイの花だ。
我が家のアジサイの花も、雨をうけて、鮮やかになってきたような気がする。
アジサイの花の色は、その土地の酸性か、アルカリ性かで、
いちだんと赤く(ピンク系)なったり青くなったりすると聞く。
ヨーロッパではアルカリ性の土壌のため、赤っぽいアジサイの花が多いと聞いたことがあるが、、、
いろいろ諸条件で変化するなんて、とても不思議で面白いと思う。

アジサイの花
アジサイの花、雨にうたれて

白いアジサイの花
こちらは白いアジサイの花

がくあじさいの
野趣があり、気品がある、ガク(額)アジサイの花。 山に自生しているものもある。


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2008.06.20 (Fri)

RE・たのむねー

                                カエル君の返事

      ALL RIGHT !! 
      種まいた大豆、これから ちゃんと芽が出て、しっかり育ってほしいなぁ、、、
      おいらも、祈っているぜぇー。
      大丈夫さ。 きっとさ、しばらくすると こんなふうになるぜぇー。
      おいら、知ってるのさ、、、               (from 雨ガエル)

     大豆の若葉

      大豆の若葉が風にゆれて、、、、 はやくこんなふうに育ちますように。
      こちらは 一足早く植えられた、福井の大豆。                    職人K

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2008.06.18 (Wed)

ある日の朝の来訪者

あじさいの花がだんだん大きくなってうっすらと紫やピンクに色づいてきた。
しかしながら、晴れた日のあじさいは全く精彩がない。
やはり、この花が美しく見えるのは、本格的な梅雨にはいってからである。
雨の日こそ、生き生きとしてきて、よく似合っていると思う。
あじさいの花は、待ち遠しいけれど、
梅雨の雨は、重苦しくて、ユウウツになってくる。

ここは、とある大学の農学研究室。 ここにも 本格的な梅雨にはいる前に、
終えてしまわなければならない重要な仕事をかかえて、やきもきしている、研究生がいた。
6月半ばにかかり、晴れては雨、雨が降っては晴れ、、となかなか思うような天気に恵まれない。
一仕事とは、大事な種まきの仕事である。 研究用の大豆である。 もう1週間が過ぎてしまった。
種まくための畑の整地は、すでに多くの人の手によって、すっかり用意できている。 あとは天気。
種まきの日くらい、当日晴れていればいつでもよいのかと思ったら、
なかなかそうではないようである。
当日はもちろん、前日に雨が降り過ぎていてもいけない。
大事なデータをとらなければならない大豆だから、ちゃんと育ってもらわないと困るのである。。
今日こそ、と思うと雨が降り出す。

ある朝、今日はどうだろう、、と外を見やったら、
見慣れない、来訪者がそこにあった。

siho1.jpg

shiho2.jpg

shiho3.jpg


というわけで、この来訪者がいよいよどこかで眠ってしまったのか、
その日、みるみる晴れてよい天気になってきた。ようやく、GOサインが出て、
その日 無事に種まきを終了することが出来たとのことである。
でっかい雨ガエル君、眠ってくれて有難う。
また、あとあと、しかるべき時が来たら、しっかり雨たのむねー。             
                                      
                                      写真構成、非常勤助っ人職人
                                      取材、   職人K
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2008.06.17 (Tue)

野口英世  Ⅲ

野口博士のサイン

野口英世のサインである。
驚くべきことに、もう二十歳そこそこの時くらいに、野口英世は、英語、フランス語、ドイツ語をほとんど独力でマスターしてしまっていた。 これだけは他にはだれにも出来ない天才業だったようである。
英語は高等学校の友人の親戚がアメリカに行っており、時々送ってきた英語の雑誌を借りては読めるようになっていたという。 またドイツ語は、医学を学ぶかたわら、独習して 有名なドイツの医学書をせっせと翻訳してしまう。 また町の教会に派遣されて来ていたフランス人の牧師さんをつかまえて、自由にフランス語も話せるようになっていたという。 その陰には、恐ろしいほどの集中力、努力があったようだ。

また、ロックフェラー研究所においても、恩師フレキスナー博士が、いったい、日本人はいつ寝るのだろう、と驚いたほどの、野口の働きぶりだったという。
一週間でも一ヶ月でも下宿に帰らず、研究室のソファでごろっと2、3時間寝るだけの研究生活だったという。 小さい頃に、ナポレオンが3時間しか睡眠しない、ということにおおいに喜び、まさに野口もそれを一つの心のよりどころとしていたようだ。

偉大な人物の勉強ぶり、というのには本当に驚かされる。
かつてキューリー夫人も学生時代、火の無い屋根裏部屋で寒さに耐えられず、布団の上にさらに本やら椅子をのせて、その重みで寒さをしのいだといわれているらしいが、
野口もまた、東京へ出てから真夏には綿入れの着物しかなく、汗だくだくで勉強したという。
もっとさかのぼって、江戸幕末の勝海舟の勉強ぶりもすごい。
夏の夜でも蚊帳もなく、冬はふとんもない。そんな中でただ黙々と日夜机に向っては筆をとり、
疲れては机にふして眠った、、とある。 蘭和辞典ツーフーハルマはこのようにして 半年がかりで写し終えたという。

今の時代は、モノやお金がすべてを支配するという、あまりに唯物的な考え方ばかりが言われているが、古き時代の大人物は、見事にそれを吹き飛ばしてくれるようだ。
いずれの人も、並々ならぬ根性の、強い精神、心の持ち主であったといえる。      職人K
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2008.06.16 (Mon)

野口英世  Ⅱ

野口英世の本

この本でとりわけ 私が心を打たれたのは、野口英世とその母、シカとの親子の関係、深い親子愛だ。 小さい頃の、ちょっとした不注意のために、右手が思うように使えないような身体にさせてしまったという、母親としての負い目がたえずおそってくる。 何とかしなければならない。
父親は家をほとんど空けて帰ってこない日が多いから、あてにならない。 英世の他に姉と弟もいる。
一家を支えなければならない。 貧しい暮らしである。 人一倍、男手のごとく、働きに働いた。
その働きぶりには 村の人もびっくりしたという。 顔も真っ黒である。 シカは66歳で亡くなっているが、今の時代から見ると、うんと年老いて見える。
さすがに野口の母らしく、非凡なエピソードもいくつか残っている。
野口を見抜いた、小林先生は、シカに会って、この母にしてこの子あり、と 、母としてのシカの優れた人物にもおどろいている。
                                        野口の母、しか
やけどによって不自由になった手も、恩師をはじめ、多くの人の好意で、17歳のときに手術をうけて
ようやく人並みの自由な手を取り戻す。 その後は、医学の道をまっしぐらに進んで行くのであるが、
母、シカに出来ることは、遠くのわが子のことを ただただ祈る事だけしか出来ない。
信仰とは、このように純粋なものであるものと思う。
実際、母の想いは届いたのだと思う。 その後の人生は、もちろん野口自身が努力でもって切り開いて行ったのものであるが、困難な中でも 多くの良き人との出会いは、幸運にめぐまれている。
母の強い祈りが、成功へと導いたのだろう。

そして40歳のとき、15年ぶりに日本に帰国、日本国からも恩賜賞を受け、各地を講演してまわり、歓迎をうけるのだが、その間の2ヶ月は母シカも同行。 野口はこれまで出来なかった親孝行をするのである。 この2ヶ月の間は、シカにとってどんなにうれしかったことか、想像できる。
立派な野口を目の前に、これまでの苦労が報われる思いだっただろう。
そして再び、日本を離れ、その後もどることは出来なかったから、これが永遠の別れだった。
シカもわかっていただろう。 強い精神を持った女性である。

親と子がそばにいて、いつも面倒を見たり、また世話など親孝行できる場合はしあわせである。
しかしながら、遠くで、また偉大すぎる道ゆえに、それがままならない場合もある。 
だけど、遠く離れていても、親は親、子は子。 想いは同じで 何ら変わることはない。
この2ヶ月間の思い出を心に焼き付けて、また祈りの毎日だったのだろう。
また、それから生きていくうえでの希望の光であったともいえる。
今のように、簡単に行き来が出来たわけではない。
かつての中江藤樹のように、官仕を辞して郷里の母のもとへ戻る、親子の関係も素晴らしい。
がまた、遠くで祈る母の姿、また親子の互いの絆というのも、とても美しいと思われる。  職人K

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2008.06.14 (Sat)

野口英世  Ⅰ

野口英世

アフリカと日本人、というのを考えるとき、忘れてはならない人物がある。
それは、野口英世である。1928年(昭和3年)、黄熱病の研究のため西アフリカにわたり、
アクラ(現ガーナ)の地にて、ついには自分も感染、53歳で亡くなった。
殉職地のガーナには、博士の研究功績を記念して、今も銅像があるという。
ニューヨークの墓地にある、その墓碑には、
[ その努力は科学に献げ尽くされたり、人類のために生ける彼は人類のために死せり ] と刻まれているという。

今は千円札の顔となっている、野口英世であるが、今 どれほどの人がこのことを思いだすだろうか。
あわただしく過ぎていく、世の中である。 さほど関心もないかもしれない。
かくいう私もそうだけれど、3、4年ほど前、偶然手にした、野口英世の本を読んで、
野口本人はもとより、その母であるシカの人生にひどく感動したことがある。
その時の自分が感情的であったからなのかよくわからないが、涙があふれて仕方がなかったことがあった。

野口英世は、1876年(明治6年)の、岩手県の貧しい農家の生まれ。
(といっても、江戸時代には姓があることから、それなりの血筋を引く家柄であると思われるが、何代かのうちに零落したものと思われる、、)
雄大な磐梯山と、鏡のような水面の猪苗代湖を見ながら育ったという。 
小さい頃のやけどの話はあまりにも有名だが、医学に志して、努力の末、医者になるも、
単身アメリカにわたり、フレキスナー博士のもとで、毒蛇の毒など、伝染病の研究に没頭。
また梅毒菌の純粋培養に成功し、ノーベル賞候補にもあげられた。 
また19世紀には大流行した、黄熱病の研究のため、エクアドルにもわたり、最後はまたアフリカの黄熱病の研究のためにその地におもむいたのだった。
黄熱病は今はほとんど発生していないというが、当時は、「西半球の恐怖」と呼ばれるほど、多くの犠牲者を出して、猛威をふるっていたという。マラリアと同様、蚊を媒体とする熱帯性伝染病だったらしい。

今からずいぶん前の昭和のはじめに、こうしてアフリカというとても遠い異国で、医学の分野にて、
他国のために生涯を終えた、立派な日本人があったことも忘れてはならないと思う。   職人K

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2008.06.13 (Fri)

ネリカ米 (New Rice For Africa)

ネリカ米

ネリカ米、というアフリカのために開発された新種のコメがあるという。
「奇跡のコメ」とも呼ばれているもので、乾燥や病害虫に強い西アフリカ種のコメと、収穫の多いアジア種のコメを掛け合わせて作られたという。 1994年に開発された、陸稲である。。
アフリカのコメの開発は90年代から始まったが、当初は困難続きだったようだ。
しかしながら、日本をはじめとする先進国の資金、技術力の援助などで開発が進み、今では、アフリカでの貧困対策と食料安全保障の切り札として、国連からも 大きな期待が寄せられているという。
日本は、特にその資金の70、80%を援助して、技術者も現地に派遣、その普及に努力してきたとのことである。 その ネリカ米の特徴は次の通り。

1、 多収穫。アフリカのこれまでの種は一本の稲穂に70-100粒、アジア種は200粒強なのに
   たいして、ネリカ米は肥料無しで300粒近くになる。肥料があれば300粒を大きく越える。

2、 収穫が早い。種をまいてから約3ヶ月で収穫。これまでのアフリカ種より1ヶ月以上早い。

3、 乾燥に強い。降雨量が年500-600ミリのサバンナ地域でも栽培可能。

4、 病害虫、雑草に強い。いもち病やアフリカタマバエなどへの抵抗力あり。 雑草にも強く、
   草刈りの労力が今までの3分の1から4分の1。

5、 高タンパク。在来種は6-8%、ネリカ米なら9-10%。

以上、びっくりしてしまうような、大変なスグレモノのお米である。
このネリカ米の研究、普及に一生懸命になっている日本人、JICA(ジャイカ)の人だったと思うけれど、先日、テレビで紹介されていた。 まさにネリカとともに生き、ネリカとともにアフリカで骨をうずめても本望というような、情熱が伝わってきた。 仕事だから仕方がない、というのではなくて、それに生涯をかけておられるように見えた。
福田首相のさらなる支援表明のずっと以前から、日本はそれなりの支援をしてきたようだ。
その支援は、お金だけではなくて、このように現地にて、現地の人の自立した生活を助けるべく、
マラリアの元となる蚊が飛び交う慣れないアフリカの地にて、文字通り命をかけて活動されている日本人の方々があることを、そして今もなおいっそうがんばっておられるということを、 まず、日本人である私たち自身も、知らなければならないと思う。 おおいに誇るべきことであると思う。

今、世界で主に食料とされるのはインディカ米で、水稲がおもな日本の米とは、種類が少し違うようである。 このネリカ米も陸稲であることから、あまりに進み過ぎて森林が焼畑に変わるのも困るが、
ますます研究と技術指導が進んで、アフリカの人たちを救うコメとして、このネリカ米がうまく広がってほしいと思った。                                          職人K
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2008.06.12 (Thu)

TICADから、アフリカの国

アフリカの夕焼け

つい先だって、五月の末、ローマで開催された世界食料サミットに先がけて、横浜で 第四回アフリカ開発会議(TICAD)が開催された。
アフリカからは、これまで最高の約40カ国の参加があったという。
おりからの世界的な穀物など食料のかつてないような高騰で、それが、 おもに貧困層を直撃、各地で暴動が起きている大変なこの時期、 福田首相は、これまでにないアフリカ支援を打ち出した。
そこには、今や世界の争奪戦となっている、アフリカにある地下資源の確保、また国連の安保理常任理事国入り、また洞爺湖サミットの議長国としての成功など、 いろいろな思惑があまりに見え見えのような、大盤振る舞いのような、強大な支援表明であったけれど、ともかく良いことだったと思う。
支援の規模は、向こう5年間で最大40億円の円借款、食料不足に対しても緊急支援金とともに、アフリカの米の生産高を10年で倍増するというもの、そのために技術支援や協力もおしまないことを表明した。

日本からはとても遠くて、人種も気候もまるで違う、神秘の大陸、アフリカ大陸。
世界一の大きさのサハラ砂漠が アフリカの上半分に広がっている。
今日、無尽蔵にあると言われる豊富な地下資源で、世界から熱い目でみられているが、一方、
干ばつによる食料危機、エイズの蔓延やマラリアの病気との闘い、人種間の対立による政情不安の国々の存在など、、、
ちょっとやそっとでは解決しそうもない、困難な問題をかかえすぎているところである。
アフリカの人によれば、援助はとても有難いが、ただお金やモノをもらうのではなくて、自国で食べていけるように、自立のための援助がしてほしいとのことである。

日本は、石油や鉱物など地下資源が何も無い国。将来、このアフリカの国々に期待するところがとても大きいことになると思うが、友好的な関係を持つためにはどうしたらよいのだろうか、、、と考えていた時、
テレビで、サッカーの中田英寿のことが報道されているのを見た。  中田英寿とアフリカ

若い人たち、特にセレブの紳士や淑女のように見えたが、パーティーの最中のようだった。
オークションのように、値段のついたカードを出している。
「 中田英寿とサッカーをする権利、、、どうですか?」、という声に、
「500万円!」 と、声とともにカードが上がった。 そう、この日のオークションの売り上げは、
アフリカへの支援のための、チャリティオークションだったようである。
この日集まったお金は、全部で3000万円。 
中田氏によると、これで 蚊帳(かや)を買って、マラリアに苦しむ、アフリカの国々の子供たちのために、ユニセフを通じて贈るのだという。 蚊帳は薬剤付きのものであるという。 この蚊帳がとても有効で良いものとわかっていても、高価でなかなか買えないものなのだそうである。

中田英寿、なかなかやるなぁ、、、とつくづく感心してしまった。
現役引退から、世界をあちこち見てまわっていると聞いていたが、アフリカのこどもたちとも、サッカーをしながら親善交流しているのを、テレビか何かで見たことがある。
300万円、500万円、と、ポンポン出てくる金額には びっくりしてしまうが、
おおいに結構なことだと思う。 持てる人は、持たざる人に、おおいにまわしてほしいものだと思う。

福田首相の、とてつもなく大きな支援表明にはびっくりしてしまったが、
中田英寿の、蚊帳の支援も なかなか、オトコマエのことであると思われた。
                                                     職人K
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2008.06.11 (Wed)

アンティックシルバーの丸メガネ

アンティックシルバーの丸メガネ
この大きさとヤマ幅がおしゃれ

アンティックシルバーの丸メガネ、と砂漠の薔薇
アフリカの不思議な石(砂漠のバラ)と丸メガネ          考古学者の気分

このたび、ご依頼のあった、アンティックシルバーの、38mm(レンズ径)の小さな丸メガネです。
細いリムのものが、これからの季節、ちょうど良いかな、と思います。
このところ、生地のままの無垢のタイプの丸メガネが多くでましたが、
このように、濃淡のついた、アンティーク調のシルバー色も、アンティークゴールド色と並んで、
渋さが光る、クラッシックテイストとしての、定番カラーです。

このアンティーク調の丸メガネをかけて、
ある時はクリエイティブな御仕事に、、またある時は、趣味の世界に楽しむ、、、
そんなとき、このメガネがとてもよく似合って、、どうか、お役に立ちますように。

(*砂漠のバラ)   砂漠で生まれた、不思議な石。 石膏を中心に結晶したもの。
             砂漠のオアシスが干上がる際に、水に溶けていた硫酸カルシウムがカルサイト
             や石膏と結びつき、平板状の結晶が花弁のように成長して、
             このような不思議な形状の石を生み出したという。
             砂漠といえども、水が存在しなければ、この結晶は出来ず、
             この石があるのは、そこにかつて水があった証拠であるという。
             アフリカのチュニジア産。
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2008.06.08 (Sun)

フラッシュダンス、what a feelig から

フラッシュダンス1

1983年に大ヒットした映画、フラッシュダンスというのがあった。
ダンスへの情熱を描いた映画で、その中での主題歌、what a feeling、も映画とともに大ヒットした。 映画の最後の場面、 主人公がオーデションで 審査員を前に この主題歌の曲でダンスを披露する場面が、この映画のいちばんの見せ場、いちばん美しく素敵な場面である。
この場面が見たくて、昔 何度もビデオを借りた覚えがある。
今は、ビデオを借りなくても、YOU-Tubeで探したら、flashdance original版をはじめ、数多く出ていてこの場面がすぐに見られることがわかった。 こんなにたくさん出ているのも、他の人も 私と同じ気持ちなのがよくわかる。 つくづく 自分は、一般大衆の一人、をいつもよく代表していると感心する。
つまり、いちばん フツーの人なのだろう。


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2008.06.06 (Fri)

HOSHI DE ( 星出 ) いっぱい、がんばって

星でいつぱい<全体
星、星、星、、

今度のスペースシャトル、ディスカバリーの日本人乗組員は、土井さんに代わって、星出さん。
めずらしい苗字、宇宙飛行士にぴったりの名前であると思う。
日本の有人宇宙施設、きぼう、の船内実験室に実験研究資材を次々と持ち込んで、難しい作業に奮闘中とのこと。
きぼう、の船内にはじめて入ったときには、茶目っ気たっぷりに、紙をひろげて、
[宇宙実験&宇宙飛行士、募集中] のメッセージをこちらの地球に送ってきた。

こちらも、外へ出たら、街路樹の葉っぱがまるで星のよう、、星、星、でいっぱいである。
[星出さん、がんばって。こちらも ただいま応援中!] と言いたいところだ。

星形の葉っぱ1
大人の葉っぱ
星の葉っぱ2
まだ若い出たばかりのの葉っぱ、    いずれも星形             職人K
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2008.06.05 (Thu)

河川にて、桑の木

桑の木、2007-6-4-A
堤防の上から、桑の木

久しぶりに出た河川敷の散策で、これは堤防の上になるが、もう一つ、なつかしい植物との出会いがあった。
それは、ずいぶん久しぶりにお目にかかる、桑の木。 ちょうど今、その赤い実がたくさんなっていた。
いちばんおいしい、黒くなった実もちらほら見える。 こんなに立派な大きさの実をつけているなんて、
山に自生しているものより、ずっと大粒である。 そういうと、この桑の木の葉っぱの大きさも特大サイズである。近くにはまだその小さい粒のものの木も2、3本も見られるが、それにしても 山奥ではなくて、こうして こんなところにこの木があるのが、とても意外に思われた。 鳥がどこかで実を食べて、フンの中にその種子が運ばれたのだろうか? いずれにしても、河川というところは、その名の通り、よそからの流れモノとして、多くの植物がたどり着いている所であるかもしれない。

桑の木2 
おいしそうな実がたくさんついている。

桑、というのは、ご存知のとおり、その葉は、昔から、
絹の糸を取り出す、蚕の食べる、大事な食べ物、飼料となる、とても重要な植物の木である。
生糸からなる、織物の繊維産業は、かつての日本の経済をささえた産業。
そのもととなる蚕は、カイコサマと様づけで呼んでいたくらいだから、いかに重要なものであったかわかると思う。 立派なカイコサマになってもらうためには、じゅうぶんな桑の葉が必要だった。
小さい頃、どこかでその養蚕の場を見たことがあるが、幼虫である大きな白い虫が、食欲旺盛に棚に並べられた桑の葉を食べていたことを覚えている。 けれど、近くで養蚕をしている所があったわけではない。 この木を知っているのは、黒っぽく熟した実が食べれることを知っているから、しかもとても甘くて美味しいことを。 山々に囲まれて育ったから、経験的に、すぐに桑の木だとわかった。

人の苗字にも、桑がつく名前がある。 知っているだけでも、桑田さん、桑原さん、桑島さん、、、そのルーツをたどると、やはり、古来から何かと人にとって重要な木であったことの、何かつながりがあるのかもしれないと思う。 しかしながら、この桑という木も、子供たちにとって、馴染みのない木にだんだんなっていくだろう。 織物など、繊維産業は、とおの昔に発展途上国に、日本から場所を移してしまっている。 絹織物ならなおさらだ。

先日、繊維産業の会社での、就職のための会社説明会での様子を聞いて、びっくりしてしまった。
今の大学生でも、養蚕の白い繭を知らない学生が多くいるという。
見たことがなくても、くわしくはわからないでも、せめて白い繭の存在くらいは知っていてほしいと思う。 かりにも繊維業界へ踏み込もうとしている人なら、なおさらのこと。
かつて、女工哀史と言われた、休みなく働き尽くめの女性の前に選別のためにたくさん並べられていた、白いたくさんの繭、繭、繭、、、何かの映画で見た過酷なきびしい場面が思い出される。今の経済発展の昔には、そんな歴史があったことくらい、、繭の存在くらいは、勉強して知っていてほしいなぁ、、、なんて思ってしまった。 これからはこんなことが多くなるのかもしれないと、さびしく、また心配になってしまった。    職人K
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2008.06.03 (Tue)

河川敷のアーティスト

河川のアート
空をキャンパスに、巻き巻きアート

河川敷を歩いていたら、あれっ?と思うような、風景に出会った。
傘の持ち手のような、春のスプリング模様のような、巻き巻き模様が、風にそよそよ揺れている。 
これは、ススキの枯れたもの、去年のものだ。 下からは、青々しい、今年の新しい葉がすでに立派に伸びそろっている。 すすきの穂はカールしてはいないから、どうもおかしい。
いったい何でかしら?と、よく見てみると、そこに、小さなクモがいた。
この巻き巻き模様を作ったのは、どうもこのクモのようである。 なんと、ススキの穂先を巻いて、そこに小さなクモの巣がつくってある。 すでにそこには、エモノである、小さな虫がひっかかっていた。
うーん、クモはなかなかの知恵者であると思った。 そして、この風景、現代アートとして、世に発表してみたいような作品のようにも見える。 クモはまた、なかなかのアーティストでもある。
ただし、悲しいかな、クモはあまりに小さな存在であるから、この作品の全体像はわからないだろう。
青い葉は堅くて丈夫であるから手に負えないが、種子の飛んでしまったあとの穂先なら、何とか思うようになるのだろう。 そして、何よりそれらは、葉のより高いところにあって、エモノの虫が風にのって飛んでいるところにある。 虫がひっかかりやすいと思う。 なかなか考えているなぁ、、と、すっかり感心してしまった。

河原の風景、ススキの渦巻きもよう


河原の風景、うずまき模様、アップ


現代アートにおいては、いろいろな作品が発表されている。 あれこれ意図しても、苦慮のわりに、なかなか難しいのではないかと思われるが、自然界には、このように、あえて意図しなくとも、偶然にも、面白いものが、ある結果となって出ていることが多いように思われる。
この小さなアーティストの、偉大なアートには、本当に驚かされてしまった。   職人K

河川のススキ、青色
青々としたススキの葉

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2008.06.02 (Mon)

河川敷、クルミ物語

クルミ、日野川2

 夕刻、運動不足解消のため、いつもの低山コースではなくて、今日は近くを流れる、日野川の河川敷コースへ出てみた。 ここは、中学校、高校も近くにあり、一般の人もジョギングが出来るように、河川敷の一部が整備されているところ。 つい先日はいっせいに河川清掃の雑草刈りが行なわれて、見通しがいちだんと良くなっていた。 河川敷でいつのまにか大きくなってしまった木々もススキのような草木も、新緑の時期も過ぎて、本格的な緑へと移行している。 こんなにフサフサとした葉っぱをつけて、漆の木かと思ったら、何と、クルミの木であるという。 近づいて、よくよく見たら、もうすでに、立派なクルミの実がついている。 職人Mに言われるまで、わからなかった。

クルミ、日野川


 秋に収穫となるクルミの実、まだまだ青いが、奥越などのかなり山深いところでしか、なかなかお目にかかれないクルミが、どうしてこんなところに?と不思議に思われた。 だれかが植えたものとも思われない。 川の中央付近の中州にも、クルミの木らしきものが他に何本か見ることが出来る。
ちっとも不思議なことでない、と職人Mが言う。
そう、この川、日野川の上流は、岐阜との県境にあるところ。 いちばん奥の、夜叉が池登山道近くを流れる川沿いには、そういえば、立派なクルミの木がたくさんあった。
上流から流れてきた、クルミの実がこうして下流のどこかにたどりついて、そこで芽を出したものが、
いつのまにか、実をつけるほどのこんなに大きな木になったのだろう。
鯖江市だけでも、堤防のあちらこちらで、このようなクルミの大きな木が見られるという。 また
実際に、それらの実を楽しみに拾い集めている人がいるという。
海辺に流れ着いた、ヤシの実の話というのは知っているけれど、クルミの実の話は、はじめて知った。
クルミの木よ、、ここまでたどり着くまでには、、ここまでなるのには、ナガーイ、クルミ物語があったんだろうね、、、と声をかけたくなった。                      職人K

自転車、日野川、クルミの木

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2008.06.01 (Sun)

6月、暑くなる季節、  復古調の兆し

6月、だんだん暑くなる季節、細リムめがね
カメラでなく自分の目でしっかりと、、、               細リムの丸めがね

今日からいよいよ6月。だんだん暑さが気になってくる季節だ。梅雨のじめじめした湿気も加わってくる。 今、だんだんと昔の、いわゆるガリ勉タイプの、黒ぶちの復古調メガネが流行ってきているということだが、この季節には ちょっと暑苦しくなってきそうだ。 やはり、この季節は 細リムのメガネのほうが、かける側も軽くて爽快、涼しいはずだと思う。クラッシックな丸メガネで。

メガネも復古調の兆しだが、今、ちょっとした復古調のブームとなっているもの、それは仏像だ。
古い歴史のある仏像の鑑賞がブームになっていると、職人Mが言う。
現在、東京上野で開かれている、国宝薬師寺展は 会期50日目にしてすでに入場者50万人を突破したという。 平日でも長蛇の列、待ち時間60分以上という時もあるそうだ。
何ゆえ、今、そんなに多くの人が集まるのだろうと思う。
このような殺伐とした社会への変化のために 人びとが救いを求めるからだろうか。
信仰からくるものだろうか。ちがう、信仰ではなくて、仏像そのものの鑑賞、その美の鑑賞だと職人Mが言う。

この流れ、仏像の鑑賞のブームはどうも昨年ころから始まっているらしい。
知らなかった。 そういえば、私たちもこの春、白山の室堂にあったものを里まで下ろして
安置してある、何体かの仏像を鑑賞、拝んできたところである。 そうやって、知らず知らずのうちに
自分たちもまた 大ブームの中の一人となって その大衆の一人を代表してしまっているのだから
面白くて、不思議な事であると思う。

この6月、来る6/14から7/21まで 奈良国立博物館では 「国宝、法隆寺金堂展」が開かれる。
飛鳥時代、日本の仏教の夜明けにあたる時期の信仰の形を今に伝える、仏像や壁画をじっくりと鑑賞してみたいもの。 飛鳥時代の仏師は、仏の超越した力をあらわそうとして、その姿を人間に似せようとはしなかったが、奈良時代以降は、仏像の姿も、人に似せるようになり、造形も大きく変化する、という。 聖徳太子の威光が輝き続けた、飛鳥時代の仏像を いちどはじっくりと拝みたいものだ。

そこでは、カメラは撮影禁止となっているから、めがねを正して、自分の眼でしっかりと見て鑑賞してきたいものである。

法隆寺 釈迦三尊像
国宝、[法隆寺、釈迦三尊像]623年飛鳥時代
聖徳太子の病気回復を願い、太子と同じ背丈で造られているという。

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